粟津邸の見学から将来を勝手に想う

建築見学

粟津邸に行く

グラフィックデザイナーの粟津潔(1929-2009)の
自宅兼アトリエは川崎市多摩区の住宅街にあります。
その場所は、我が家から徒歩圏内にあるので休日の散歩がてらに
建築見学をしようと思い訪れてみました。

そもそも粟津邸とは

今から50年以上前、1972年に竣工された建物を設計したのは、
京都駅や梅田スカイビルで有名な建築家・原広司です。
粟津潔は1960年代の建築運動「メタボリズム」のメンバーであったが、
その仲間に依頼する事でなく原氏に設計を依頼したとの事。

この「粟津潔邸」は、原氏が世界の集落を調査しながら手掛けた
作品群「反射性住居」の原型でもあり、この建物から車で
2~30分程度の場所にある原広司氏の自邸もこの粟津邸がなければ
無かったのではないかと思います。

この家を引き継いだ、ご子息の粟津ケン氏は「住宅遺産トラスト」に
相談し、かつて父である粟津潔氏が作品制作に勤しみ様々な
アーティストたちと交流した建物内部は当初の姿に近づけるべく
改修され、2023年秋にアートスペースとして一般公開するに至りました。

↑エントランス(道路からの建物外観撮影は不可)
今回訪れたのは、展覧会『ANTI-WAR 反戦:天使とダイナマイト』
at 粟津潔邸 AWAZU HOUSE です。

建物の見学へ

偶然にも他の見学者がいない時間だったのでご子息である
粟津ケン氏に建物内部を案内して頂きました。

↑階段を下りて玄関を振り返る
屋上、居住空間の2階、アトリエのある1階という3層構造で、
全フロアを貫く階段を中心にしたシンメトリーな空間構成が特徴です。
アーチ状の天窓など開口部が随所にあって自然光を取り入れやすく
なっており、屋外との関係を匠につくり出しています。

↑玄関から下のアトリエまで見通せる
玄関から建物中央を突き抜ける階段があり最下階のアトリエまで
1本の軸となり、その両サイドに各個室が配置されている
子供室に至っては、掘り炬燵式のデスクがあり、その足元からは
下のアトリエを見下ろせる窓があり遊び心も随所にあります。


↑子供室(足元からは下のアトリエが見える)
最下階のアトリエは、当時粟津潔邸が創作活動をしており、
天井は大きなトップライトで自然光が差し込みとても明るく
また、大きな作品でも直接外部へ搬入出させる出来る背の高い
ドアがあったりと随所に工夫がされています。

また想像以上に敷地が広く、現在は放置されているが何らかの
整備をすると外と内を含めた形でのギャラリーになると思います。

↑最下階のアトリエ

将来を勝手に想ってみた

話は逸脱しますが、川崎市等々力にある川崎市民ミュージアム
(1988年開館、延べ面積19,500㎡、建設費約88億円(当時))は
2019年10月12日の台風19号による浸水被害に遭いました。

地下収蔵庫にあった美術品が水没する被害に見舞われ、
それ以降休館となり、復旧に多大なる費用が掛かる事もあり
2021年8月の川崎市議会にて取り壊しが決まりました。

昨年あたりに、市は被災リスクの少ないといった理由等を経て
生田緑地のバラ苑近辺に移転候補地とするという構想があり、
市民へパブコメ等をとり具体的な内容を詰めているという感じです。
今のまま放置状態よりは、新しい市民ミュージアムを建設
するのは良いかもしれないですが、昨今の建設費を見ると
当時の規模と同等のものだと、凄い事になるのは想像がつきます。

↑和室
ここからは更に勝手な話しだとは思いますが、今回訪れた
粟津潔邸といった建築遺産を市のミュージアムの一つとして
活用することも是非とも考えてもらえればと思ってみました。

勿論、民間所有の物を市が運営するのは簡単な話ではないでしょう。

ただ、川崎市民ミュージアムのロゴを作成したのは、川崎市の
多摩区にアトリエを構えていたこの粟津潔氏であり、
ミュージアムにも所蔵品があるという関係性も何かしらの縁を感じます。

↑建築家・槇文彦氏デザインの竣工祝いのテーブル
スクラップアンドビルドではなく、既存のものを上手く再生しながら
中核となるミュージアムは最小限にコンパクト化して全体的な費用
抑えてながら、価値ある建築遺産も未来へ残して行ければ良いと
粟津邸を見学し、ご子息の粟津ケン氏とお話しながら勝手に思いました。

おわりに

話が逸脱し勝手な想像話になってしまいましたが
世の中には名作建築・名作住宅があります。
しかし基本、民間所有のものでこれを将来にわたり
残していくというのはとても難しい問題です。
何でもかんでも行政に押し付けるのは良くはないですが、官民一体となり
良いものは将来的に渡り残せればよいと思います。

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